私は信じる。
このエネルギーを。
その波を。

DSC_0753.jpg
あむ

今さっきのカーリング女子のインタビューを見ていて、外国の選手が悔し涙を流す日本選手に声をかけてハグしてた。今までの堅いイメージのインタビューではなくて、とても可愛らしく愛おしい気持ちになった。
準決勝進出おめでとう。

勝負も今の私の仕事も
多分こういうことなんじゃないかって そのインタビューを見て思った。
勝った負けたの奥にある国境(ライン)を越えたつながり。女子スピードスケート500㍍の日本と韓国も。それは国と国ではなくて、人と人なんだろう。
勝った負けたではなくて、その過程や想いの共有や越えてきたものの理解なのだろう。ぶつかり合いや、苦しみや悲しみや弱さの支えあいだろう。それは立場は関係ないんだ。
時間というのはいいものだ。人というのはいいものだ。
その時は苦しくとも、それがなんなのか見えてくる時がある。


今日は仕事の後に会議があったけれど、どうにもその会議にエネルギーが吸いとられるような感じがしたので欠席しました。
今もエネルギーは肯定的なものを感じていて、私はこれを否定していたのだなと、誰にもそんなこと言われてないのに、これはいけないことだと否定していたのだなと思いました。
ある。これを私は信じる。
つながってると信じる。このエネルギーが周囲に波として伝わる何かを信じる。このエネルギーを信じる。

肯定的なことがチラホラ起きてきています。
スポンサーサイト

弱さと弱いこと。

DSC_0752.jpg
あむ

用事があったけれどやめて、1日家にいました。
最近はオリンピックと将棋にまみれています。

弱さとは弱いことを直視できないことをいうのだなぁ。
弱いからといって勝てないのではない。強いから勝つのではないのだ。実力が相手よりもないから負けるのではない。そうであるときが多いかもしれないが、必ずしもそうではない。客観的に判断できれば細く難しい道でも勝つ道が見えてくる時がある。
弱さとは弱いことを認められないことだ。勝つ道を自ら断っているその精神だ。
負けない人なんていないんだ。負けないからゲームをするのではない。
私が進めなくなったのは弱さを否定し排除して強くなろうとしたからだ。弱さがなければ強く在れないのだ。弱さとは強さだ。

もっと前にわかっていれば、あの時 私はもっと強くなれたかもしれない。
私って負けず嫌いで、勝ちにこだわる闘争心があるのだなぁ。私ってもっと穏やかでナヨナヨしてか弱いと思ってたよ。(←どこが(笑))このエネルギー、がっつり戦士じゃないか。

頭いたい。

DSC_0751.jpg
あむ

仕事は苦痛でしかなかったのに、初めて肯定的なエネルギーを感じながら仕事の時間を過ごしました。
朝 仕事の前もエネルギー的に肯定的な感じ。
いつもは仕事前からぐったりしてるのに、むしろ変な感じで頭がついていかない。

頭がついていかなくて頭痛がする。

無気力だったりしたのは自分とは違う在り方をしていたり自分とは違う在り方を求めていたからなんだなぁ。無気力かなって思った(自分としてはペースダウンしたかなと思った)その奥に肯定的なエネルギーを感じ、このかんじが自分に合っているのだと感じました。

無意識に責めて相手に罪悪感を抱くような行動をしてしまった時に、これだ!って気づいて。
その瞬間に相手のことが理解できた。


うー頭いたい。

バカらしくなって笑えてきた。

DSC_0750.jpg
あむ

相手が罪悪感を抱くように己の苦しさをぶつけてくる人。
その人と仕事をしていたときに、ふと、私はなんでこんなにビクビクしてるのだろう 何でこんなにもその人の目を気にしてるのだろう 何でこんなことで私の何が否定されると思ってたのだろう と思って、そんな行動をしてる自分に笑えてきたのでした。
ビクビクしてる自分に笑えてきて、そんな私がバカらしくなった。
あぁ、私だなって思いました。
でもこの感じまだ受け入れきれてないのかもなぁ…
あぁ、なんか自分にがっかりしてるのかも。がっかりするっていうのもできる女幻想があるからなんだろうけど。
自分ってこんなじゃないって思ってただなぁ。自分ってこんななんだなぁ。(←失礼)

肯定的なことが少しずつ起きてきて、それが受け取れなくて本当にいいのか過剰に確かめてしまって嫌がられるということがありました。
それも今は仕方がない。
関係をよいものにしようとしてるのではない。
私のしようとしてることをしっかり認識して今を過ごそう。

恐怖。

DSC_0749.jpg
カーテンの裾飾りっぽくなってきた

出だしにちょっとしたことがあったけど、生きているということを感じながら仕事ができる時があって、いい感じかなって思ってた。
その出だしのことが仕事終わりに引っかかった。

相手に罪悪感を持たせるような物言いをする人がいる。辛いこと苦しいことを相手のせいだと責める波動でもって、言葉としては正しいことで教育している体で色々言ってくる。
その罪悪感にのまれ、自分に負荷をかけるような提案をしそうになった。
これはおかしいと踏み止まって提案をせず帰宅。

ちょうもやもやしてて、惨めさなのかなんなのか色々見る。私もそれをしてたと恥ずかしくなったり、否定してたと気づいたり。でも おさまらず。
その後の日程調整の肯定的な出来事に はたと気づく。

肯定的なことに恐怖を感じてるんだ。
提案しなかった自分の行動にびびってるんだ。
それで、こんなことが起こるはずがないとか、こんなことしたらえらいことになるとか 心が惨めやかわいそうに逃げ込もうとしているのだ。

ふい~
こわやこわや(^^;

ただここにあって、生きている。

DSC_0745.jpg
あむ

もう何もしなくていいのではないか。
私は世界の0.1%も知らないのだろう。
そんなことをふと感じた。
こんな未知の中 何も知らずに手放しで生きていけていることが奇跡だ。

もう自分を感じるための何かをしなくていい気がしてきた。
何もしなくても私はここにある。

理解できないことがある。
理解できなくても、ある。

DSC_0744.jpg
あむ

職場の退職された人の送別会の日に(ちょうど先月のグループの日に)高校からの友達の赤ちゃんが産まれた。
今日、その子の実家に その子と赤ちゃんに会いに行った。

結婚してなくて子どもがいない惨めさだろうかと自分を見ていても何かちょっと違って。
もやもや感が昨日と似ててつながってるはずと思い、見てゆくと、これはできる女幻想ちゃんのもやもやでした。

理解ができない。
人が人と付き合って結婚して子どもができるということが理解できないのだと気づいた。
前に、仲間に何で結婚したのと質問したことがあるあれと一緒。
理解ができない。何故そうなるのか、何故そうするのか、何が起こっているのか、理解ができない。
そもそも妊娠出産なんて理解できる代物ではない。医学的にこれがこうなってこうなるからああなるということを理解したところで、では何故それがこうなってこうなるとああなるのか理解したことにならない。そもそも産まれるということが何なのか理解できない。
できる女幻想の私が理解できないを前にしてパニックになって、怒りだの恐怖だの色々やたらめったら出していた。

世界は理解できるものだけでできていると信じていた。
理解できないことがある。
理解できなくても、ある。
それは 視野を広くする。

昨日同僚が、絶対ない。と言い張ったことが目の前にあって、でもそう言い張るからその人には見えないんだなぁと感じたことがありました。
そういうことだ。
理解できないことをあるとして受け入れる器量を持とう。
そもそも理解とはどういうことかという話にもなってくる。
理解とは人間的理解を超越した何かを言うのかも知れない。

偏見。差別。まともとは。

DSC_0743.jpg
あむ

仕事のはじめの方に、昨日の飢えてる私が出てきてこれでこうしてるのかと気づいた瞬間笑えてきて。
その後の仕事はゆったりといい感じで過ごしたけれど
仕事の最後の最後に やられた。怒り噴出。
嫉妬や妬みの部類だと思っていた。
そうではあるのだけれど、惑わされてた。

正しいことと押し付けてくる人。
私はその人が正しいことを言うので、その人に怒りが向くのはおかしいと無意識に違う人に怒りの原因があると思ってた。よくみると いやいやその人やん。
人の考えを聞かずに思いを押し通し切ってくる。
できる女幻想の私が反発してるのだろうと見ても治まらない。

ならば。
いざ。

その人を見、自分をみる。
その人から偏見をみた。自分は正しいことを言っているという名の下に人を鼻で笑う。最後まで聞かずにわかった気になって、上っ面だけわかった状態で人を笑う。
それが見てとれるときに怒りがわくのだ。

それは偏見であり差別である。無理解であり、決め付けである。
それに対する怒りや無念があると同時に、
それから自分を守ろうと私はそれを偏見的な目でみて差別しているのだ。

だけどもその人を正しいとしてるもんだからそういう自分の部分を悪として、その部分を肯定できないままだったんだなぁ。
その人もできる女幻想のひとだったんだ。それが それだ。もっと分かりやすい人は前に見ていったけど、その人はちょっと巧妙すぎた。
そうはみえない中のふとした傲慢さに反応するんだ。

なーんだやっぱりできる女幻想なんじゃーん(*´Δ`*)

何か。

DSC_0741.jpg
あむ

どうにか私を認めさせたかった人がいたけど、それは第三密度的に魅力となるものを何も持っていない私にはどうにもできないと悟りました。
仕事もできない。能力も知識もない。権力も権威もそれに相当するものを何も持ち合わせていない。女性としてのイメージ的に期待される何かもない。私にはない。それらを得ることができない。
外から得るための何かは全て私は得ることができない。うまくいかない。

それでも私は信じることにした。
私だってよくわからない、私の何かを。
第三密度的ではない その可能性を。

だから、次
昨日のようなのが出てきたときに、紙一重でもいい、そう信じていよう。


そう思ったら、認めさせたかった人がなんだかどうでもよくなって ちょっと戸惑っている。

疎外感よりもっと
消えてしまっている感覚。

DSC_0740.jpg
あむ

ずっと何回も出てくるもの。
私の存在はいらない。
外にみるもの。それが母が弟に愛情を向けていたとき私が感じていた切り離された感覚と同じであるとき、私の存在が脅かされる恐怖を感じる。
疎外感。私がそこにいない感覚。
いるのに切り離された感覚。
その感覚が恐ろしくて、劣等感や無価値感やらが渦巻く。

切り離された感覚。
私がいるのに、いない感覚。

こっちをみてと言う代わりに好きだ好きだと言った。

「できる」というのは私の存在の場所だった。
私が切り離されるとき、出てくる私だ。
私の存在を感じられないとき、出てくる私だ。
できないと存在の居場所がなくなってしまうんだ。
できるということが全てだった。
できるということが私の正義だった。
そもそもが見られない存在だという思いがあるから
できないと、できるということで作っていた私の居場所がなくなって
誰もそんなこと言っていないのに、私の存在はいらない いない方がいい と思ってしまうんだ。