私は何がほしいのか。

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あむ。つなげる

昨日ブログを書いてから確認したら、IDはオークションができるものではなくて、フリマとして出品できるものでした。さらに有料の登録をしてオークションができるようになるみたい。

ごちゃごちゃ考えてしまって、こうしなければ得られないという思いに絡め取られていました。
その自分が考えたことはやらないでおこう。

落ち着いて考えればオークションにしなくても私の希望価格で売ってみればいいのだし。

私は何がほしいのか。
お金なのかギターなのか。
多分それらは象徴であって、それらの物質を求めてるのではないのだと思う。
あのワクワク、抱えたときの(今はイメージして感じる)嬉しさ。
それらのはず。

お父さんが喜んでくれて私が嬉しかった。それ。
お母さんが喜んでくれて私が嬉しかった。それ。
それが見えなくなって、こうしなければ愛されないと思ったと気づいたところではないか。

これも同じ。
こうしなければ得られない。そこからのスタートをやめよう。

明日じっくりどうするかまた考えよう。
明日アップできなくたっていいと自分を許していこう。大切なのは明日出品することじゃない。私が求めていることを求めることだ。
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逃げない。目を背けない。真正面からどんとこい。

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あむ。

ほしいギター。
ネットを見るたび、まだある(誰かが買ってない)ことにほっとする(笑)

査定してもらって、セッションでこれくらいなら…と言った金額になるものがある。
でも、目指してるギターはそこから1万円くらい高い。生活費からは出せそうにない。
さて。

以前それを売ろうと思ったことがあり、仲間に相談したとき、オークションに出してみるのもいいよね 査定価額をスタートにしてもいいよねと言われたことを思いだした。その時はやらなかったけど、どうやらその時 私はオークションできるようにIDを取得していたらしい。(そのサイトを教えてもらった記憶はあるけど、IDを取得した記憶はない。)
30日までにオークションに出そうと思う。

出そうと思ってるものは、私が苦しかった時に私の支えとして買ったもの。この時の私を想いながら手放してゆこう。この苦しみを忘れるのか!ないことにするのか!と叫ぶ自分を感じる。
でもそれは違う。その気持ちを受け止めながら、ないものにするのではなく、私が受け止めて愛していくんだと 強く思う。

やりたいことに向かうとき、それができるできないが私の価値を決めるのではない、どうなっても大丈夫という安心感がある。

大まかな。

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あむ

人を見下し傲慢で我の強いかわいくない私。
善悪の判断。罰。
自分にほしいものを与えない。幸せになってはいけない。

大まかな図式が見えてくる。
さて、始めませう。

せめにはいる。

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7つめ

セッションでした。
ギターをやりたいという話から、
このギターいいなぁ!というものが出てきて。
チャレンジ。だ。

もう今、
「義務を果たさない者は楽しむ権利などない」という観念が出てきている。
義務っていうのは
自分で働いたお金で自分の生活全てがまかなえることと思ってる。
今、親に金銭的に支えられていて、そう思うんだな。

愛と悲しみの先に。

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喫茶店にて

愛してなかったらこんなに悲しくはなかった。
愛してなかったらこんなに傷つくことはなかった。
愛してなかったらこんなに迷うことも苦しむこともなかった。
こんなに憎むことも呪おうとすることもなかった。

私は愛している。
悲しみの先に何があるだろうとずっと思ってた。

今、とても大切な時にいる気がする。
相手を本当に思うときに私がすることとは。
相手を知るときに自分を見るということとは。
新しい時がうまれている。今は何をしていいのかわからなくて、自己満足のことをしてしまったりボーッとしてしまうけれど、こういうときに私は何をするのだろう。
今までの経験を持った私は。

自分を愛する。大切にする。

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あむ。

今日と明日は仕事がお休み。
最近、休みの日は自分を大切にすると決めている。
いつか仕事してるときも、どんな時も自分を大切にするところまでいきたいと思うけど、今はやったことの跳ね返りやら恥ずかしいところの受け止めやらで おおぅ… となるので休みの時に十分に自分を大切にする。

虐げられるのが男の人からの愛だと思っていたから、思いやりのない愛のない虐げられ方に傷ついていたので、今日はひたすら優しく自分の名前を1日中呼んでみた。
なかなかいい感じ。自分の声だとしても、実際に耳から入る優しい声は心に届く。

お父さんのことを考える。
自分の名前を呼んでいると、こうやって小さいときに呼ばれてたことを思い出した。はーい!って返事するだけでお父さんもお母さんも幸せそうだったことをうっすらと覚えているような気がする。
多分 私が何もできなくても生まれてきた価値はあって愛されていた。
でも大切な人に喜んでほしくて何かをできるようになりたいと思ったんだ。
お父さんが好きだったんだ。

いつのまにかそれが見えなくなって、できないと愛されないという観念に縛られていたんだなぁ。

勉強ができないと見下していても
その人は別の土俵で私よりもできる。
その人の土俵で私が全然ダメでも
私は私の場所がある。はず。

そこがどこだかまだわからないけど。
信じるところから始めよう。
相手を尊重するところから始めよう。

恥ずかしくて死ぬ!

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あむ。

この人は違うと思ってたけど、例外なく私の反映でした。
なんでそんなこと思ってたのかなぁ。
超絶恥ずかしくて仕事中「まじかー」を連発…。
この現実全てひっくり返してなかったことにしたいくらい。

好きならなにしてもいいという観念。
できるならなにしてもいいという観念。
人を見下して傷つけて嘲笑して。
私こんなことしてたかぁ…
うん。私も勉強という土俵でしてたわ。
そうじゃなくても、してた。

で、その人たちを判断していると結局その人たちを見下して嘲笑することになって同じなので(しかも自分がそうであったから否定や判断なんてできやしない!ただただ自分にがっかりだ!)、判断せず受け入れていきます。
悲しみが出てきて不幸だと叫ぶ自分もいるけど、そこの自分で生きることをやめる。そこを中心にしてたから見えなかったんだな。自分がしてきたことも、何もかも。
私はかなしかったんだな、って実感をもって感じました。

お父さん。

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今日みたいな日も、あむ。
写真は燃やすまでもなく破り捨てた。

今までできることは全部やった。もう打つ手がない。
その中で感情が止めどなくあふれでる。
「認められないと価値がない愛されない」という観念がみつかった。
お父さんとの記憶がよみがえる。
だから勉強を頑張った。

どんなにやっても外の人に私を紹介するときは私を卑下した。
今では父の照れ隠しだと理解できる。
でもその時の私は惨めだった。惨めに虐げられるのが男の人が私に向ける愛だと思っていた。
そういう相手ばかりだった。

最近周りでおめでたが続いている。
生まれてくる。それだけで十分だと私も親も思っているのを感じる。

まだ感情が出る。
ちゃんと出しきろう。

あー!!ってなる。あー!!って。

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あみあみ

あー!!ってなる。
あー!!って、あー!!って、あー!!って叫んで走り出したくなるくらい恥ずかしい。

ひいぃって。
張り合っていたんだ。私の土俵ではないところで。
無い物ねだりをして、嫉妬して。
自分が女として上だと虚勢をはって、裸の王さま状態。
あー!!ってなる。あー!!って。

傷つく前に傷つくのはやめよう。
相手の土俵で戦うのはやめよう。
それぞれの土俵で楽しめばいい。
私には私の土俵があり、
私には私の繋がりかたがある。

みつけた!

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あむあむ

みつけたー
不幸な私。不幸になろうとする私。私は不幸だという私。
正しさ(当人は普遍的だと思っているが、かなり個人的な正しさという観念)にこだわるあまり人との豊かな関わりを切ってしまっているにもかかわらず、相手が私から離れていくと傷ついて私は不幸だと悲しんでいる。これ。

これだー
正しさ(と思っているもの)より豊かな関わりを選択していきます。
という宣言です。