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しあわせコラム

コラムの形にするとなんとなくまとめやすくていい感じなので、出店までのコラムは終わりましたが「しあわせコラム」として不定期のコラムを新設しようと思います。
よろしくお願いしますm(。_。)mペコリ

今日は1日憎しみや憎悪やイライラを感じていました。
そして昨日気づいた、すべてやってもらっている子どもの自分も出ていました。
ところどころのまれながら気づきながら。

みんなが肯定的に楽しそうにいる輪の中に入れない自分を感じていて、ここを変えてゆきたいんだなと思っていました。

憎しみや憎悪イライラなどの否定的なエネルギーが霧散した時、失敗を笑い合えた場面があって。
その後気づいたのは、もしかしたら今までもつながっている時というのはあったんだけど、ただ気づいていないだだけなんじゃないかということ。

その中にいすぎて気づいていないだけなのではないかと。そしてさらに憎しみや憎悪の方にフォーカスしすぎて見えなくなっていただけなんじゃないかと思ったのです。

否定的なエネルギーが霧散して肯定的に笑い合えた。
それはきっと、
否定的なエネルギーを癒して肯定的な現実を引き寄せたということなのではないかと。

壮大なスピリチュアルのイメージとはほど遠いけど、多分これがそうなんだなと(*^^*)

思うのであります。

コラム:しあわせを感じる受けとる広げる生きる⑩

本日コラム最終回です(*^^*)
今までお付きあいありがとうございました。
無事出店を終えることができました。

出店中、自分をみてゆくことに意識を向けて、感じることをみつめてゆきました。
私は自分に「なにもできない子」という役をあてていて、出店の準備もそのほか小さいことも親の影に隠れて親の力でできているという現実を作っていました。

それを認めることで今のすべての関係をこれでよしと認めることができ、きっと親が親であり、子が子である関係を場所や相手を変えながらやっていたんだなぁとつながりをみることができました。
それがいいかわるいかは別として。

さらに、他の出店者さんの作品を購入し、価値の納得の上での正当な交換がいかに大切か理解しました。

そういうことをしてゆくことで誰かが私の品を買ってくれたとなるとスピリチュアル的に引き寄せっぽくて華やかしいのてすが、そんなことなく私の品は売れずに母と父の作品が売れました(^-^;

これも華々しい変化を期待せずにコツコツと行きなさいというメッセージだと思って、
私の価値、私のちから、私のエネルギーを信じて進んでゆこうと思います。

今日はなんだかひとつの区切りのようにも感じ、再スタートの場所となりました。

内側の反映。その基本に立ちます。そしてそこを変えてゆくことで変わってゆく。その道を地に足をつけてコツコツ進みます。

私の未知を
照らして。
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12面体の“ホオズキ”という作品です。ホオズキはホオズキちょうちんとして、この世の道を照らしてくれる御守りでもあります。



皆様ありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。

コラム:しあわせを感じる受けとる広げる生きる⑨

今日は春分の日。
スタートの日です。
私にとって変化の時でもありました。

そのままの自分でそのままの気持ちを伝えられたこと、そのなかで相手のしあわせを想い行動できたこと。そして私も相手も受けとるものがあったこと。それは形ではなくあたたかな気持ち。

そうそう、これこれ(#^.^#)
私はこれを信じる。
これがほしかったんだ(*^^*)

コラム:しあわせを感じる受けとる広げる生きる⑧

出店まで残すところ後2日になりました。
このコラムはなんだか出店とはかけ離れたところで書かれているような気がしていますが、私のしたいことは出店とか売るとかそういうこと以上に、現実は内側の反映であり、内側の観念を変えてゆくことで現実も変わってゆくということを実践してゆくことだし、実践して伝えてゆくことなんだなと改めて思います。
そしてこのコラムも出店もそういう流れの中にあるものだと思ってます。
なにとぞおつきあいください(#^.^#)

今日は私はいなくてもいい子というかなしみのさらに奥の憎悪に行き着いています。
私は、「私はダメだ」という観念が呪文のように繰り返しガンガン内側で鳴り響く時があるのですが、それは一体何故だろうと探っていったところ私が憎悪を感じているという事実に当たったのでした。

憎悪を感じているが、それを認めたくないために自分を悪者に(あるいは被害者に)しようとして「私はダメだ」という呪文を護符のように握りしめていたのです。

憎悪を感じたとき、どうにかしようどうにかしようと戦っていたのでした。その方法が「私はダメだ護符」でした。

もう戦わなくていい。
外に起きた憎悪を感じさせる出来事から焦点を外し、その時感じた憎悪そのものに焦点をあて集中させて感じます。


もうなにもわからない。
ただ感じることだけを感じてゆく。
思考を越えてそういう自分を認めてゆく。

―――
憎悪があるから人をある一定の距離から内には入れなかった。近くなる度に相手を気持ち悪いと思った。

私を好きと言ったお父さんが外のひとに私を紹介するときはいつもダメな子と言っていた記憶。好きと言ったのに嘘だったのと傷ついて癒されないままだったこころ。
ダメな子と言われたことに傷ついた私の憎悪。
―――

かなしみと憎悪。
ダメな子というレッテルと憎悪はふたつが協力しあってその存在を保っていました。
ある時は憎悪の隠れ家として、ある時は憎悪を感じさせるものとして、ダメな子という観念は存在していました。


それがひとつの物語だとしても、そういう自分をそのままよしとします。
そういう自分と一緒にいるのです。


………………………
〔お断り〕
決してお父さんに傷つけられたとお父さんを憎悪しているのではありません。
むしろこのリアルな憎悪エネルギーを感じさせて思い出させてくれた存在として、癒しのきっかけをくれた存在としてみているのです。

コラム:しあわせを感じる受けとる広げる生きる⑦

コラムも7回目になりました。
読んでくださってありがとうございます。

かなしみがぶわっと出てきて感じているというところから、今日はさらにみてゆきました。

すると「好きなことをする」という一見肯定的な行動の裏に、私はいなくてもいい子という思いと深いかなしみがあることに気づいたのです。「私はいなくてもいい子だから社会に出ずに好きなことをやろう」という思いです。

深い深い悲しみでした。
それはヤケに近く、肯定的に見える自暴自棄でした。「自分はいなくてもいい子」というレッテルがずっとずっと私の奥の方にべったり張り付いていたのです。

のまれているかもしれないことに注意しながら出来る限りの客観を駆使して歌ったりしながら感じてゆくと

ふと
お母さんに「まきがいなかったら私もいない」と言われたことを思い出し、私はいていいと、私がいることがそれだけが大切なのだという思いとエネルギーに泣いていました。

ひとつの癒しと
ひとつの観念の書き換えがなされたようでした。


お母さんが私に言うこまごまとしたことは私の存在の否定ではなかった。ただ、大丈夫なのか不安でてを出したくなって出していたということなんだなと、理解したのでした。


ーーーーーー
余談ですが…
最近糖質制限きかない感じです。甘いもの食べています。
その食べ方が、何か変化に対する抵抗のようでもあります。
それもみてゆく対象でしょうな(*_*)