FC2ブログ

目からウロコぽーん

DSC_0113.jpg
天気が悪くてレジンが固まらないのでストップ中。レースあみあみ。

ちょっと行き詰まって師匠に連絡を取りました。

撮影に行けなかったことからおかしくなってるな~とブログを読み返して思って、なんだろうと見て行くと我慢している自分を見つけました。自分をみてわかったからと納得してるつもりで実は我慢をしていたみたい。
小さいときお姉ちゃんだからと我慢をして、それが愛だと思っていたということにも気づいて。
愛されてない大切にされてない惨めだと叫ぶ自分は、我慢をして苦しんでいて でもそれが愛だと思っているからどうにもできなくて苦しくて泣いている自分を理解していなかったからガンガン出てきたのだなとわかりました。そういう自分を理解していなかったから(愛してなかったから)愛されないと叫んでいた。 それを外の誰かに投影してその誰かに愛されないと嘆いていた。
我慢なんかもうするもんかと 我慢をやめて自分を押し通して来たりもした。これも外をどうにかしようとする行為で反抗期とも自己満足とも独り善がりともいう。

全ては私の反映だとわかる。
だからそういう自分を理解したとき、外をどうにかしようなんて全く思わなかった。
全てがそのまま愛しく感じた。
だって、我慢をして苦しんでいて でもそれが愛だと思っているからどうにもできなくて苦しくて泣いているなんて、なんて愛しいんだろうと思うではないですか!
もうそのままでぎゅーってしたくなるくらいに!
ま、自分なんですけど(*´ω`*)ムフ←調子のったー(^^;


師匠からのメールでは我慢をすることが問題というよりも選択権が自分にないと感じてるところに問題の根があるのではという話に目からウロコぽーんでした。
相手の事情や今の状態、だからこそ必要なこと、それらがわかってしまうと全てに応えないといけないと思っていた。家族の様子を見て感じとることにノーが言えなかった。そんな選択肢は私にはないと思っていた。
確かにそう思っていた。
全体から感じとることとやりなさいと言われたことを優先して自分がしたいことを後回しにして結局何もできないまま次の要求があり、我慢を重ねていた。

ニーズに応えるか否かの選択権は自分にある。
それは、ノーと言っていいということ。
自分がしたいことや軸となるものと相手のニーズの間を見ながらということになるとは思うけれど。

でもそれならもっと安心して相手をみれる気がする。
相手を理解していける気がする。知ってしまっても大丈夫だ。
スポンサーサイト



選択権があるときの選択基準とは

そのまま

comment iconコメント ( 0 )

コメントの投稿